楽しみにしていた、「ジョゼと魚と魚たち」を見てきました。
今回は、そのお話です。
ネタバレがあります。
映画を未見の方は、本記事はお読みにならない方がよいと思います。
あくまでも、私個人が、アニメ映画版「ジョゼと虎と魚たち」を見て感じたことをまとめたものですので、誤認や知識不足があると思います。御容赦くださいませ。
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見たい映画の封切り日なので、今日(12月25日)は1日休暇です。
「映画見に行くから、休暇ぁ?」
「世の中、舐めてんのか?」
いいんです。昨日も会議で遅かったし。
その会議で、また仕事が増えたし…。
「宣伝もある程度はやっていたし、クリスマスの週末だし…」ということで、「カップルでいっぱいで、激混み」を想像していたのですが、それ程でもなかったですね。70%位の入りだったような気がします。
平日の朝一番の回なら、これで十分かもしれませんが、告知から考えれば、もう少し欲しいかな。
まあ、ここは名古屋ですからねえ。
お隣には以前の記事の「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の幕が。
記事を書いている時点では、まだDolby Cinema版の上映が継続中なのです。
2回目に見た、いつものシネコンでは観客は20名くらい。
うーん。まあ、平日の16時00分上映開始は、中途半端な時間だから…。
今日この後の2回分で、バーンと観客が来てることを祈りたいです。
【「民の声は、神の声」】
「修道院荘園(「アベイ農園」他いろんな訳題があります)」のラストでシャーロック・ホームズは、そう宣告しました。
一般人民の、普通の声の中に、真理があるということですね(※)。
私、「評論家よりも、コメンテーターよりも、映画を見終わった後のお客さんの何気ないおしゃべりにこそ、真の評価はある」のではないかと思っています。
朝、名古屋駅前のシネコンで見終わって退場する時に、前の二人組のお喋りが断片的に聞こえました。
それが、「普通に良かった」です。
そう。普通に良かった。
凄くいいかといわれると、そこまでではないような気もするけれど、普通に良かった。
絵も声も音も、どれも十分で、普通に良かった。
【「私はこう捉えた」ということです】
あらすじは、公式サイトなり、YouTube上の予告なりを見ていただくのが手っ取り早いでしょう。
○アニメ映画『ジョゼと虎と魚たち』公式サイト
○アニメ映画『ジョゼと虎と魚たち』ロングPV(YouTube)
中盤~終盤にかけて、二度、ジョゼが恒夫の前から姿を消すところがあるのですが、そこが、少し説明(描写)不足な気がします。
「想像しろ」「考えろ」ということなのかもしれませんが、それまでのジョゼの心象・心理的描写が少ないことからすると、ちょっと唐突で突き放された感じがするかな。
恒夫のバイト先の店内で自分の服をピラっとさせて、「うーん」という表情をしているところ。
あれは、ずっと守られた内側の世界にいる自分と、外側の世界で過ごしている今時の女子の服装と比べて、「なんか、冴えんな」と思ったのかな?
撮影してきた魚の話で楽しそうに話す恒夫と舞の姿を見て、「自分には叶わないこと」をして、そのことで楽しげに話す2人(特に舞)に対して無意識の嫉妬をしてしまったのかもしれません。この時、既にジョゼは恒夫を意識していたのですから。
「自分には出来ない」「自分には届かない」ことの事実を改めて知ってしまい、「理解者のようにも見える恒夫」から逃げ出したかったということなのでしょうか。
ずっと抱えていた「自分には出来ないこと」への苛立ちが、その後に重大な場面をもたらす「健常者には分からん」のところで吐き出されるのかもしれません。
自分が、自分で動けなくなって。
自分がどれだけ願っても、叶わなくなることがあって。
それを、恒夫が「『自分のこと』として理解した」時、本当に恒夫とジョゼの心が通じあったのだと思います。
「あたい…幸せや」というシーンには、自分のせいで大変なことになったのに、それでも「退院の時には、迎えに来てほしい」と言ってくれた恒夫の想いに、自分には縁が無かったはずの「誰かを好きになる」「誰かに好きになってもらえる」こと ― 心が 想いが 通じたこと ― が感じられたことへの素直な気持ちがあるように思います。
だからこそ、リハビリの効果も出て退院出来るようになり、失った夢を取り戻した恒夫に対して、「自分が居ては、恒夫の『これからへの飛翔』『夢の実現』の重りになって」しまうと思って、ジョゼは恒夫の前から姿を消したのかもしれませんね。
独りだった閉じた世界に、「勇者」がやってきて、外へと連れ出し、繋がりを創ってくれた。
そして、いつか、勇者とはこれからの時間を共に歩んでいく、かけがえのない存在同士になった。
おばあさんの遺影が、エンディングロールで映るのは、「ホント、良かったな、クミ子」と言っているように思えます。
【これで十分だったんや】
今回の作品には、2003年の実写版がある訳です。
でも、その時には見たいとは思わなかった。
理由は単純で「好みではなかったから」です。
普段から書いているように、私は「ハッピーエンド至上主義」なので、薄暗い、幸せそうに思えない映画は見る気にはなれませんでした。
普段ならば「自分の意見をまとめる前には、他人のものは見ない」のですが、今回、ふと検索でヒットした先で「うーん」と思わされるものを見てしまいました。
「本来、この物語の根幹を成す『闇』から目を背けて、何が『ジョゼと虎と魚たち』なのか?」という論に、肯ける点はあるのですが、とはいえ、わざわざ後味の悪いものを見る必要はないと思うのです。
以前、「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」をめぐる妄想記事の中で書きましたが、「物語は、要求に応じて書き換わる」のです。
現在の顧客(=観客)が「きれいな純愛を求める」のならば、原作を再構築してそれに応えるのも「あり」だと思います。
薄暗さの原因を排除して、精神的な純愛に昇華させるのも、「あり」だと思います。
「換骨奪胎」といえなくもないですが、出来上がったものが良ければ、それでも十分だと思います。
そういう点で、本作は、「田辺聖子の小説を『原作』とした」に過ぎないのです。
そう捉えるべきでしょう。
「キレイごとばかりの映画」といわれてもねえ。
私は、「キレイごと」が見たいのですし。
もっとも、製作者側が本作の原作を「青春恋愛小説の金字塔」と言ってしまえるセンスには、呆れるのですけれど。
宣伝に必要とはいえ、これは、少なくとも「青春恋愛小説」の「金字塔」ではないだろうよ。
アオハルは、もっと爽やかでなければ。
【余談と戯言と】
この作品も、文化庁の助成金あり。
でも、こういうのならば、どんどん投入してくれても構いません。
それに比べて、「パノラ…」、う、「きみは……」、あっ、頭が…………。
やめよう。死人に重ねてとどめを刺すのは…。
ところで、助成金は国からの支出ですから、いわゆる「国費」の投入ということになります。「国費」といえば「会計検査」。
こういう助成金に対する会検は、どうやってやるんですかね?
ムダなお金がなかったかって、どうやって判断するのかしら? それとも支給型育英資金のように、「出しっぱ」なんでしょうか? お仕事の関係もあって、少し気になります。
エンドロールの後のシーンも含めて、よく出来てます。
予定調和ですが、まあ、そういう伏線ですもんね。回収・回収っと。
あと、上映終了後に、こういう画面が出ます。
感想を投稿する所までちゃんと誘導するあたり、話題性(口コミ)を得るために練り込まれてますねえ。
当地では、新年早々の公開となる「声優夫婦の甘くない生活」(1月1日)、その後に公開になる「ミッション・マンガル 崖っぷちチームの火星打ち上げ計画」(1月8日)と、個人的に興味を持っている作品と合わせて、チャンスがあればもう1回映画館でみたいと思っているのですが、さて、どうなりますか…。
この前に見たのが「ニューヨーク 親切なロシア料理店」ということもあり、「薄暗い映画で1年終わるのもなあ…」と思っていたので、希望を感じさせる本作品で1年を締めくくれて「ほっ」としました。
休暇取る価値は十分にあったと思います。
よかった。
<以下は、戯言です>
最初の「事件」の後、ジョゼ宅に招かれた際。
晩ご飯をご馳走になる恒夫の傍らでジョゼが読んでいるのは、カバーを外した角川の文庫本。さすが角川書店、細かなところにも織り込んでくるわー。
カバーが映画化の特別版なら、買う可能性は否定出来ないけど、どうなのかしら…。
なお、Amazon限定で画像のダウンロード権がついたヤツを販売してるんですね。うーん。
エンドロールで宇野亜喜良さんのお名前が出て、ちょっとびっくり。
最近だと、NHK「みんなのうた」において、「誰かがサズを弾いていた」の映像で造形とイラストレーションを担当されていたのを強く覚えています。
「イラストか工芸での協力なのかな?」と思ったのですが、どうやら書影協力っぽいですね。サガンの訳書の表紙イラストの関係でしょうか。
仕方なく応じた人魚姫の読み聞かせが終わった後、ジョゼがホワイトボードに描いていた「人魚の住むお城」の絵も、なんとなく似ていなくもないように感じましたが…。
Evan Callの担当した音楽はとても良かったのですが、図書館でのクライマックス(「心の翼」の絵本朗読)のところで流れた曲は、やや「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」での曲と似ていたような気もしないでもありません。
両作品の公開時期が近いことと、後者を20回見て記憶に焼き付いているからそう思うのかもしれませんけれど。
いつも「月の形(月齢)と時刻表現」にこだわって見ていますが、本作は月齢も時刻もぴったりで、演出的に素晴らしいと思います。
満月が下界を明るく照らすのは、ほぼ真夜中のこと。
だから、恒夫とジョゼが、病室の窓辺・自室の窓辺、月明かりの下で落ち着かない気持ちでいるのは、真夜中の雰囲気にぴったり合う。
蕪村の俳句「月天心貧しき町を通りけり」や、小川未明の童話「月とあざらし」を思い出します。
出てくる車の「絵」が微妙に古いのよね。
あと、同じ車がやたら出る。例えばワゴンRとか、初代Fitとか。
NCV(=9代目)カローラがちょこちょこ出るのには驚いた。9代目は、もう15年以上前の車だから、今ではあまり見かけなくなりつつあるのだけれど…。
恒夫を撥ねた車と退院の時のタクシーが同じトヨタ・カムリというのは、いただけない。
もう少し、そこら辺は工夫してほしいところ。リアリティに差が出るから。
もっとも、「HELLO WORLD」の時の「ist大量発生」に比べれば、かわいいものですけれど。
リアリティといえば、ジョゼのラジカセの液晶。
ケータイやスマホのアンテナ記号は、ラジカセには無いのでは?
しかも「バリ3」。周波数も表示されてないのに「バリ3」はないでしょ。
プロップ設定の方、しっかりしてくださいな。
電車から見えた飛行機は、神戸空港だったのか、伊丹空港だったのか?
箕面市立中央図書館は聖地になるのかな?
「清原果耶の声を愛でる映画」でもあるのかもしれん。
来年の朝ドラは見る。うん。うん?
まあ、「来たる者は日に以て親し」ということで…。