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2020年11月28日土曜日

なんともかんとも…。「君は彼方」


 以下は私の個人的な感想です。

 監督さんや出演されている方の中に好きな人がいる場合、あるいは、鑑賞して面白いと感じた場合、読んだアナタを不愉快にする可能性が非常に高いです。

 見なかった事にして、そっと、このページを閉じることをお勧めします。

 あ、「これから見に行こう。楽しみだな」とか思ってる人も、これ以降の記事は読んではいけません!


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「予告編詐欺」「宣伝詐欺」に続く「イメージイラスト詐欺」なのかも…
新たな手口の波動を感じます(←大袈裟)


 控え目に言っても、「クソ」。
 今年2本目の「金と時間を返せ」級でした。

 前にそう思った「ジオラマボーイ・ パノラマガール」には、まだ、「青春真っ只中が故の迷い・苦しみ・もがき/好きという感情表現」があるように思えたけれど、本作にはそれすらも感じられなかった。


 開始してすぐに、なんとなく、話が分かってしまう。
 伏線とも言えないような伏線。
 本当に、その場その場を繋いでいくような、雑に感じてしまう展開。

 原作・脚本・監督を兼ねてやれる人じゃないんだろうな。

 「どこかで読んだようなお話に、どこかで見たような絵」、影響を受けたものが多すぎるんじゃないのかな。
 具体的に言ってしまえば、「君の名は。」と「天気の子」、後はなんだろう? 「心霊的な何か」、その3つを、フードプロセッサーで切り刻んだだけみたいな感じ。融合して「別の何か」に変化している訳でもない。

 この人の作品は、多分、よほどのことでもない限り、今後は選択肢に入らないと思う。


 文芸(ストーリー・書きっぷり)が最悪の上に、絵が悪い。アニメで絵がダメならば、見所はどこにあるのか?

 で、エンドロール見てびっくり。
 原画・動画共に、人員的には最低限の投入という感じ。背景も最低限な感じ。
 見ている間は「なんだか、今時のアニメ、それも劇場用アニメとは思えない」と、ずっと思っていたけれど、「超節約モード」って訳か。

 そりゃ、冒頭の賽の河原のシーンでの桜の花びらが散る様子に、「今時、こんなのをよく見せる気になるな…」と思ったのも、頷ける。
 その時は「でも、絵はそこそこだけど、お話としては凄いのかもしれん」と、期待していたんだけど………。そんな事はなかった…………。


 俳優組の配役、良くなかったと思う。
 昨年の「HELLO WORLD」を思い出しちゃったよ。あの時以上に「アニメの演技じゃない」と思った。
 声優側としては、山ちゃんの声も辛かったかな。「え? 木瀬さん?」と思うほど、「劇場版 若おかみは小学生!」の「木瀬(父)」だった。 

 変なキャラクター役の大谷育江さんは別格(※1)として、唯一の救いは早見沙織さんだった。
 でも、はやみんにしても、「これじゃ、甲斐が無いんじゃないの?」という気がするな。どんな時でも、ちゃんとお仕事される人なので、見ていて・聞いていて、つい、そう思ってしまった。


 本作は、東京都豊島区がバックアップしていて、「池袋の街並みとか雰囲気が登場する」とされているんだけど、本当に、「ただ登場する」だけ。別に、池袋以外のどこかが舞台でも問題無い程度の関わり。
 なんか、「間違った『聖地ツーリズム』への期待」と、つまり、行政の関与の失敗を感じる。
 「豊島区のバックアップ」が具体的にどのようなものなのかはわからないけれど、間接的にせよお金はかかってるのだから、もう少し見極めないと。

 池袋・豊島区が主な舞台となるのなら、帯屋ミドリ「ぐるぐるてくてく(※2)」とかの方が、圧倒的に推せる。
 コミックスの帯に「豊島区もオススメ! 散歩と出会いと発見の書」とか入れる方が、よっぽどセンスが良い。コスパも良い。イベントで、豊島区内限定版の配布物出したりとか。

 もっと考えようよ…。


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 ということで、「はい、次行ってみよー!」

 気分を入れ替えて2本目を見ないと、万障繰り合わせて無理やり午後半休してきたのが報われない気がする。

 まあ、2本目・3本目は手堅い作品なので、間違いはないですけどね。



※1:
 大谷育江さんは、個人的には「姫ちゃんのリボン」の姫子役ですね。某電気ネズミでは、ありません。大谷さんの唱える「パラレル・パラレル~」の呪文、大好きです。

※2:
 4巻で終わってしまった…。
 みんなの散歩を、もっともっと見たかったのですが…。

午後は半日「(セルフ)映画の日」

 寒くなって来ましたね。

 昨日(11月27日)、当地・名古屋は「日中は晴れ。午後になるほど晴れ間は減り、お天気は下り坂。ここ2週間ほど続いたぽかぽか陽気もそろそろ終わり」という空模様でした。
 帰途、朝に車を止めておいた駅近の駐車場に戻ったら、うっすらと濡れていて、弱い雨が降ったようでした。
 その後、遅い晩ご飯を食べて、店の外に出たらかなりの風雨になっていました。「明日(28日)の午前中は、にわか雨が残る」という予報は「夜、遅い時刻には雨が降る」という意味だったのか。



 午後は無理矢理半休を取って、気になっていた映画含めて、セルフ3本立てにしました。

 ①「君は彼方」(上映初日/初見)
 ②「魔女見習いをさがして」(2回目)
 ③「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」(13回目)



 「なんだよ、リピートの方が多いじゃん」と思いますよねー。
 まあ、③はこのところ週1の習慣になっている作品だし、②も再見したかった作品だしね。どちらも、残りの上映期間等も含めて、見ておきたかったので…。


 結果は、2勝1敗でした。
 ②③が良い作品と言うことは、もう分かっているのです。問題は①。

 でも、その①がねえ……。

 というわけで、引き続き、各作品のお話です。

2020年11月27日金曜日

妄想炸裂 その7「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」

 妄想を炸裂させる記事、その7です。
 妄想を拗らせてきた記事も、これで、ひとまず終わりです。

 書いていた本人も「?」と思わなくもないのですが、捨てるのも惜しいので、引き続き、敢えて記事にしていきます。

 ネタバレがあります。
 映画を未見の方は、本記事はお読みにならない方がよいと思います。

 あくまでも、私個人が、「劇場版」と「テレビシリーズ」を見て感じたことをまとめたものですので、誤認や知識不足があると思います。御容赦くださいませ。



 今回の記事は、妄想も妄想、飛躍しすぎな内容なので、あまり信じない方が良いのですが。
 まあ、「こういう思考のリンクをしてしまう人も、居るんだ」とでもとらえていただければと思います。

 だって、文学科崩れなんだもん。
 妄想力は、そこそこ備えてますよ~。



【このお話って…】

 うーん、小物(黒電話や車)以外にも、何か引っ掛かる。
 何だっけ?
 そうそう、「お話」そのものの骨格についてです。

 ラストの前、エカルテ島へ自分を訪ねてきたヴァイオレットを拒絶してはみたものの、心中はまるで正反対なギルベルト少佐。
 海辺の葡萄畑で、島の老人からの説諭を受けて蕭然としていたところに、兄である大佐がやってきて話をする。
 「結局、どうしたかったんだ?」と問い掛ける兄大佐に、「こうさせてやりたかった」という秘めた思いを吐露する少佐。

 その会話がどうしても引っ掛かったのです。
 「こういう女性(人物)にしたい」という、育成願望があって、文字も何も知らない孤児だったヴァイオレットを手元に引き取ったという点が、何かを思い出させるのです。

 以前の記事では「源氏物語」の「紫の上」だといったのだけれど、深い思慕と、最終的にはパートナーとして結ばれるというところは、まあ合致するとして、何かが違う気がします。

 やや上から目線と境遇から考えると、あれだ「ピグマリオン」だ!
 でも、今風のハッピーエンドになっているから、これは、つまり「ピグマリオン」から形を変えた「マイ・フェア・レディ」を、更に捻ったものではないか?


【「ピグマリオン」とは?】

 「ピグマリオン」は、イギリスの作家バーナード・ショウの戯曲作品で、1913年に初演されたものです。100年以上前のことなんですね。

 「根は善良なれども相当変わった人物である音声学者のヒギンズ教授と、軍人でありながら語学研究者でもある温厚で礼儀正しいピカリング大佐が、貧窮ゆえに無学で荒削りな花売り娘イライザに、上流階級の者に相応しい言葉使いや知識・振る舞いを教え込み、最初に登場した時とは別人に育て上げるのだが、さて……」というお話。

 貧困層出身で、毎日を生き残るだけで精一杯なのだけれど、考え方が清く、一本筋が通っているイライザ。イライザは「あたいは、まっとうな娘だよ」としばしば口にします。大っぴらには言及されませんが、これの意味していることは「売春」等
 普段の生活の中ではちゃんとした身繕いを出来ずに薄汚れた身なりなのですが、実は美少女であり、ヒギンズ教授の所へ掛け合い(=ユスリ)に来た父親が、余りの変貌ぶりに娘だと気付かない程。

 「ピグマリオン」そのもののネタバレになってしまうのですけれど、まあ、広く知られたお話ですから、よいでしょう。

 最初は粗野な下町訛りを喋っていたイライザですが、ヒギンズ教授達の教え方も良く、しばらくすると完璧な英語で喋ることが出来るようになります。
 しかし、美しい英語で喋ることは出来ても、会話の内容は当人の知識・経験などの「地」が現れるものであり、美しい喋りと会話の内容に著しい乖離が起きてしまいます。
 最終的には、会話の内容についてもヒギンズ教授達が徹底的に教え込み、うら若き上流階級の娘を作り出すことに成功します。まあ「即席」ですけれど。

 生活に追われ、身なりも薄汚い。そもそも、越え難い階級の壁(時代的には崩壊しつつはあるけれど)がある中で、やや萎縮し卑屈だったイライザなのですが、育て上げられていく中で知識を得、そして他人との関係性を理解し、小さかった自我がある程度は成長し、萎縮もそれなりには緩解します。
 もっとも、与えられたものと引き換えに、本来自分が持っていた「生き生きとした快活さ」や「粗野と表裏一体の生活力」、そして何よりも「本来の自分らしさ」を失って、途方に暮れてしまうのですけれど…。

 ちゃんと話を捉えるために、今回、改めて読んでみたのですけれど、一世を風靡し、更に古典として生き残れる作品である以上、「ピグマリオン」は、やっぱりとても面白いと思います。
 ここでは、その面白さを伝えることが出来ないし本題でもないので、興味を持った方は、是非ご自身で「ピグマリオン」をお読みになることを、強くお勧めしますよ。

 通勤のバスの中で没頭したけれど、ついついクスリと笑ってしまう面白さもあります。
 私は、都合1時間30分ほどで読了しました。読みづらいところも有るけれど、さほど時間もかからないと思います。

 まあ、後半ではビギンズ教授の異常さに付き合いきれなくなってきますけれど。ショーの言説と、当時の時代性が合っていたから、あの内容で受け容れられたのでしょうね。

 
 細かい部分はおいて、「育成」という設定においては、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」は、なんとなく「ピグマリオン」の内容にある程度合致しているところもあるのではないかなと、思うのです。
 もっとも、「ピグマリオン」の結末は相当に辛(から)いので(※)、そこは「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」とは違うけれど。


※:男女間の認識(「個人的におかしい」というのも大きいですが…)の違いが大き過ぎて、ほぼ断絶しているため、ビギンズとイライザには「恋愛感情」は存在しません。イライザが感情を押し殺して、ビジネスパートナー、いや、とても有能な秘書とでもいう関係に収まります。パーティーでの成功後は、最後の場面に至るまで辛辣な内容が続いて、ちょっとつらいです。。時代的に合わない部分もありますけれど、頷けることもあるけれど。


【実は元ネタがあります】

 ところで、バーナード・ショウの「ピグマリオン」にも、そもそもの素材が存在します。
 ギリシャ・ローマ神話の「ピュグマリオーン」です。

 「女性不信で現実の女性を愛せないピュグマリオーンが、理想の女性像として象牙の彫像を創り出す。
 あまりにも真に迫り美しく出来上がったその彫像に対し、ピュグマリオーンは愛情を注ぎ、まるで生身の人間のように接した。
 愛と美の女神ヴィーナスの祝祭の折に、『象牙の彫像のような女性と結婚させてください』と祈ったところ、全てを察したヴィーナスはピュグマリオーンの願いを叶える。
 願い叶ったピュグマリオーンは、今は人となった象牙の彫像と結ばれた」

 今時のアニメ化原作にでも十分になり得そうなお話ですよね。
 この「物語の血脈」は今も脈々と人類(というか、「日本人に」かな)に受け継がれていて、自分が読んだ作品の中では、例えば、ごく最近の作品ならば、杉浦次郎「僕の妻は感情がない」が、「象牙の彫像」を家事用アンドロイドに置き換える形で創られていたりします。その話は、またいずれ。

 脱線してしまいましたが、古代ローマ時代の詩人オウィディウスの「変身物語」の中の一節「ピュグマリオーン」。
 短いお話なのですけれど、彫像の描写がかなり生々しく、「図像」としての相似性は、むしろこちらの「象牙の彫像(=ガラテアという名前です)」に感じたほど。
 アイボリーの肌の美女は、なんとなく、ヴァイオレットを連想させるものがあると思います。

 私は、取り急ぎ読みたかったので、昔に買って書庫のどこかにある岩波文庫の「変身物語」ではなく、kindle版で出ている人文書院の「転身物語」の方を読みました。そこそこの金額がするので、是非にとは言えないけれど、他にも多数の面白い話が収められているので、図書館なども使って読んでみることをお勧めします。これまで「ギリシャ・ローマ神話」というと、岩波文庫のヤツを中心に読んでいたけれど、この「変身物語」も、実に面白いです。

 と、ここまで書いた後で、コミック「せんせいのお人形」というのを、現在刊行されている分すべて(もうすぐ4巻が出ます)読みました。
 「0からの育成」という観点では、こちらも興味深いお話です。
 ヴァイオレット・エヴァーガーデンは、「武器として扱われていた孤児」という背景でしたが、「育児放棄とたらい回しの結果」という背景になっています。
 実際に「乳児→幼児→小児…」と育てていく過程は、読者には長く辛いので、「身体は成長したものの、中身は虚ろ」という形を取るのかな。

 こういう「育成系の物語」というのも、普遍的に人類が求める物語の内の1つなのでしょうか?

 それとも、日本人だけなのかな?


【「物語の創造」ということ】
 どういう意図で原作者が本作「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を生み出したのかは、原作者自身に聴かなければ分かりません。
 聞いても、100%分かるかどうか。

 漠然とでも、モデルになるような素材があったのかどうかも分からない。
 きっと自分が思いついた以外にも物語としての素があるはずです。

 企画のお仕事をしているとよく耳にするかもしれませんが、「アイデアは、全くの0から生まれてくることは少なく、大抵はこれまでのものの改良か組み合わせであることが多い」ということがありますよね。

 物語でも、そのあたりは変わらないと思うのです。
 よくある物語でも、時代に合った新味は盛れるし、捻って変化させることだって出来る。組み合わせることだって自由自在です。

 だから、ベースに似通ったものがあったとしても、他の部分で相違していればよく、本作は本作としてこれで良く、素晴らしいと思います。
 細かな部分に作者なりの想いが込められていれば、それで良いのだと思うのです。



【「類型」という魅力的な存在と、人類の「新しい物語」】

 もしかしたらご存知かもしれませんが、「物語の類型」という「物語」を分類し傾向をまとめたものがあるのです。
 民話や伝承、神話・伝説等を分析する際に、ヴァリエーション豊富だけど、実は根っこのパターンは同じというようなことはよくあり、そういった研究のために考え出されたものです。この累計は、ネタ元として創作の際にも参照されたりします。

 これまでに、様々な類型化・分類が行われてきましたが、昨今のテキスト分析技術の進展で、新たな類型が提案されていたりします。(BBC NEWS「全ての物語の6つの原型 データ分析から解明」https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-44286945
 リンク先では、英語(翻訳も含んでいるようです)を対象とした場合の分析結果が紹介されていますが、これ、日本語でも使えるんですかね? 興味深いです。

 それにしても、根本的に新しい「物語」って、今後現れるものなんでしょうかね?
 「事実は小説よりも奇なり」といいますから、とんでもない素材は実話の中にあるようにも思っているのですが。
 累計という形で人間の感性がパターン化されているとなると、「腑に落ちる」「理解できる」という点で、これまでにない「物語」は拒絶されそうだから、現れないのかなあ。


妄想炸裂 その6「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」

 妄想を炸裂させる記事、その6です。
 もう1回、思考の輪廻を繰り返します。
 ばらばらの日記メモからまとめる宿命ということで。

 ネタバレがあります。
 映画を未見の方は、本記事はお読みにならない方がよいと思います。

 あくまでも、私個人が、「劇場版」と「テレビシリーズ」を見て感じたことをまとめたものですので、誤認や知識不足があると思います。御容赦くださいませ。



【嘆きと後悔と】
 灯台のシーン。「私のお客様です」と答えた時のヴァイオレットの心の中は、きっと嘆きと後悔とで一杯だったでしょうね。
 大粒の涙が絨毯に落ちるシーン、私は好きです。
 「美しいな」と思います。


 ヴァイオレットの心の中は、

 少佐が生きているかもしれないという情報で一杯になって、エカルテ島まで来てしまったけれど、まさかこのタイミングでユリス少年が危篤に成るとは…。
 「戻ります」と言ったって、急いでも3日かかることは分かってる。こんな嵐の夜に、この島を出られる手段が無いことも分かってる。でも、行かなければ…。
 少佐には会えず、ユリスの死にも間にあわないとあっては、何も得られたものがない。こんなことならば、来なければよかった。
 でも…。

 というような、葛藤かな。
 


 私の涙腺が緩み、少々「うるっ」と来るのは、ここを含む一連の灯台でのやりとりのシーン。雰囲気(緊迫感)が、感情に訴えてくるのです。
 「約束したのです」「会いたいです」の台詞のあたりが、頂点ですね。


 あの灯台の回転は、抗えない時の流れを現しているのではないかと思っています。
 そうでなければ、重々しいフレネルレンズのアップシーンは必要ないのではないかなって思ってます。

 時間の流れといえば、こんな風にも思います。

 アイリスとベネディクトが病院へ出掛けたということを伝える電信は、カトレアが打ってくれたのかな。
 エカルテ島の灯台で待っているヴァイオレットとホッジンズ組と、ライデンで行動してくれているアイリスとベネディクト組とは、当然リアルタイムでやりとり出来ている訳ではありません。
 ライデンチームが病院へ向かって以降は、ユリス少年の決着がつき、2人が郵便社へ戻ってまとめて打電されてくるまでは「何がどうなっているか分からない」のです。エカルテ島チームは、ただただ待つしかなく、長い長い待ち時間だったのでしょう。いつしか、嵐も収まっていましたから。

 それだけの時間待っていた分だけ、ヴァイオレットの嘆きも深くなっているのでしょう。「手紙は書けなかった」というホッジンズの言葉を聞いたときの涙は、その現れですよね。


 それもこれも踏まえて、「戻ります」という判断になるのでしょう。



【描けるのか? 描かないから意味があるのか?】
 「ユリス君は、君が大切な人に会えたことを喜んでいたそうだよ」と告げるホッジンズに対して、ヴァイオレットは首を振り、弱々しく否定します。小さく弱く呟く「会えてはいません」というセリフが聞こえてくるような仕草です。

 画面上、ヴァイオレットは後ろ向きで、ふっと、ほんの少しだけ首を動かすのですが、この時、どんな顔をしていたのかな。

 きっと、その表情を絵にする事は出来るのでしょうけれど、それはしないというのがこの場面なのでしょうか。




【抗える訳がない】
 ヴァイオレットは、究極の無垢なんだと思います。
 「何も知らない」状態からなので、悪い意味での「含むところ」がない。「何かと比較して、少佐を選んだ」訳ではなく、「少佐しかないから。少佐が全て」なのです。
 そんな状態の美少女と関係性を持ってしまったら、そりゃ、誰だって惚れ込みますよ。勝てません。

 最初、どう思って少佐がまだ幼いヴァイオレットを抱きしめたのかはまだ分からないのですが、その後の日々の中で、1人の、とても素敵な女性として好きになり、深く愛するようになったのだろうな。

 その上で、ヴァイオレットにとっての自分は、「生きる武器・道具の主人としての自分」なのか、「1人の異性としての自分」なのかで苦しむ。
 それがテレビシリーズ第12話の、宿営地での問答なんですよね(=「最後の話の続きがしたいです」の、「最後の話」)。

 日々を過ごす中で、武器役と主人という関係性以外の感情を抱いていることを、無垢故にたどたどしく表現するヴァイオレット。それを見て、また、ますます心乱れる少佐。

 心乱れ、悩んでいるのは、

 「君は私を恨んでいるか?」
 「質問の意味がわかりません」

 のやり取りの辺りでも描かれていますよね。


 要塞でヘッドショットを受けていなかったら、その後の「続きはまた話そう」の内容はどうなっていたのでしょうか? 気になります。

 ドールになっていなければ、「『あいしてる』も少しはわかるのです」という境地には、まだ、たどり着けていないのかもしれません。
 けれども、戦後の平和な日々の中で、また違う少佐との関係を築いたのではないかな。

 そういう「外伝」も、あっても良いのではないかと思いました。


 テレビシリーズを追うと、本当に「少佐の言葉が生きる道しるべ」になっているのだなと思います。テレビシリーズを見てみると、最後の手紙の中身がひとしお心に染みます。



【受け入れられない筈がない】
 悪い意味での「含むところ」がないという、「究極の無垢」なヴァイオレット。
 それは、ドール生活においても遺憾なく力を発揮してますね。

 「『知らないから・分からない』から『無器用・無愛想』というだけであって、「素直に真っ直ぐに、依頼者と向き合う」姿勢自体は、受け入れられない筈がありません。
 テレビシリーズ第7話を見ると、そう思います。

 最初は「?」「なんだこいつ」と思われていても、最後には、逆に依頼者に大きな影響を与える存在になるのも、そういった「無垢な姿勢」があるからなのでしょうね。
 もちろん、心の根底にある「少佐へのひたすらな想い」の純粋さがあることも、大切なのですが。
 なんだかんだいって、「一途さ」は、心の琴線をかき鳴らすものがありますね。




2020年11月26日木曜日

妄想炸裂 その5「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」

 妄想を炸裂させる記事、その5です。
 思考がぐるぐるループです。
 捨てるのも惜しいので、引き続き、敢えて記事にしていきます。

 ネタバレがあります。
 映画を未見の方は、本記事はお読みにならない方がよいと思います。

 あくまでも、私個人が、「劇場版」と「テレビシリーズ」を見て感じたことをまとめたものですので、誤認や知識不足があると思います。御容赦くださいませ。



【わき目も振らずに】
 少佐が作り上げた人力ロープウェイの初仕事のところ。
 ちょうど通りがかったヴァイオレットとホッジンズ。

 学校でジルベール先生のことを、たくさんはなしてくれた少年が、2人に気づいて話しかける。先生の凄さを語る少年と、その話を優しくも寂しげな表情で聞くヴァイオレット。
 ロープウェーの周りの人達の様子は眺めるけれど、斜面の下の方には目を向けない。そちらを見れば、豆粒のような大きさだろうけれど、きっと少佐の生きている姿を見られただろうに。

 その後、ヴァイオレットがトランクを開け、少佐への手紙を手にとり、ふっと見つめるシーンがある。決して、斜面の下の方を見たりはしない。
 あの時に、ヴァイオレットは少佐へお別れを告げていたんだろうな。万感の思いが籠もった一瞬だった。

 その後、わき目もふらず港へ下りていくヴァイオレットの姿は、悲しいくらいに気高く美しかった。
 視線を周りに向けてしまうと、気が弛んでしまい、少佐のことを考えて出したはずの結論が揺らいでしまう。だからこそ、毅然と前しか見ずに歩いて行ったのだろう。
 本作前半~中盤までで何度かヴァイオレットがモノローグで語ったように、「忘れる」は難しく、何を見ても少佐を思い出し・考えてしまうから。

 
 さて、ここまで自分の感想を書き出して来たのだけれど、とても気になるのは、原作との差異。
 原作にここまで込めてあるのか、それとも、原作から膨らましているのか。
 映画→ノベライズだと、そこがわかりづらいところでもあるのだけれど、本作は原作→映画化(アニメ化)だから、はっきりするはず。
 比較対照してみてこそ、監督が、脚本家が、京アニが本作に込めたメッセージが分かる、はず。
 そういう意味でも、原作をとっとと読まなければ‥。

 吉田玲子さんの脚本は、素晴らしいと思ってます。単に、それを確認したいというのも大きいですけれど。


 仄聞したところでは、原作との差異はかなりあるようなので、読まない方が良いような気もしています。……。悩ましい。




【隠れ灯台好きなもので】
 エカルテ島の嵐のシーン。
 あんなに迫真の灯光を見たことがない。アニメだから出来る表現で、実写を越えてると思う。密かに灯台好きな私は、あの回転するフレネルレンズの描写には驚愕した。
 そもそも、灯台のシーン、全部良くできてましたよ。あの寂しげな灯台は、何だかヤンソンの「ムーミンパパ海へ行く」の舞台となる、無人島の灯台を思い出させるものがありました。

 でも、エカルテ島って、島本体の周りに、礁状の外郭があるから、あの灯台の意味はなんなのだろうかとも考えます。単なる位置ビーコンみたいなものなのかな。「ココには島があるよ」という。

 本当は、航行に危険な礁がある場合は、そこを示す不動の照明か、もしくは現場に小さな灯台を設置しないと、むしろ危険だと思うけれど。「海図に載ってるじゃん」と言われればそうだし、「あの規模の礁を、標識でどう警告しろというのか」と言われれば、仰るとおりだし。

 あの島がどうやって出来た島なのかも気になります。柱状節理のような崖状の岸辺がありますから、海底火山の周囲とかなのかな。あの船着き場の描写からは、一瞬東京の離島である青ヶ島を思い出しました。当方、仕事柄、地質・地学にも興味があるので…。



【すべて聞いた話です】
 兄ユリスと弟シオンとの関係は、言うまでもなく兄ディートフリートと弟ギルベルトのコピーです。
 まあ、大抵の兄弟・姉妹は「単純に仲が良い」というものではないはずなので、どこの兄弟・姉妹にも当てはまることなのでしょうけれど…。

 「ユリスとシオン」という単体のお話だけでは、「兄弟の物語」としては弱く、深みも出ません。そこに「ディートフリートとギルベルト」の話を絡ませることで、「兄弟」ならではの愛憎とそれを越えた愛情を表現したのだと思います。

 その兄弟ならではの関係について、まず気付かせたのは、テレビシリーズ序盤でのドール養成学校の同級生だったルクリア兄妹の物語でした。


 確かに、本作(劇場版)は単独でも一つのまとまったお話になっていて、感動に到達出来ると思います。
 かく申す私も、本作を見るまで「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」シリーズそのものに触れていませんでしたが、一定の感動を得られましたから。
 そういう作りでなければ、熱心なファンしか呼べない映画になってしまうと思います。

 「ガールズ&パンツァー 劇場版」では本編の始まる前に「これまでのあらすじ」を解説するごく短いパートがあります。でも、初見のお客さんがあれを見ても、やっぱり本編で描かれる「濃いストーリー」を堪能することは出来にくいと思います。

 それに比して、本作は、自然に物語の背景を説明し、初見のお客さんにも過度の負担はかけていない。
 普通のお客さんならば、1度映画を見たらそれまでで終わりなのでしょうけれど、本作に関してはむしろ遡ってテレビシリーズを見て欲しいなと思います。
 そして、テレビシリーズを見た後で、もう一度本作を見て欲しい。
 きっと、この物語の深さを、示しているものの価値を、改めて理解出来ると思います。


 すべてが密接な繋がりを持って、大きな物語を構築していく。
 これは、シリーズ構成の巧さによると思います。その上で、重要なところでは自らが脚本を手掛けているからこそ出来ることなのでしょうね。

 と、最後はまた、吉田玲子さんの話になってしまった…。(^^;)


 ガルパンも、シリーズ構成・脚本共に吉田玲子さんだし、巧みな物語だとは思うのですが、とはいえ「テレビシリーズまで見てよ」とは、なかなか素人には勧めづらい。ケリがつくのが「最終章シリーズ」で、完結まではもうしばらく掛かるし。
 そもそも、関心を持った人しか「ガルパン 劇場版」には食いつかないからなあ…。
 私はエンドロール中に流れる「帰るみんなの姿」見る度に、目頭が熱くなりますが。おじさんなので…。

 あ、吉田玲子さんといえば、「のんのんびより」も、また新作テレビシリーズやるんですよね。
 あれも、お話が淡々としているだけに、シリーズ構成の力が大きい作品だと思います。



妄想炸裂 その4「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」

 妄想を炸裂させる記事、その4です。
 ここら辺から、思考が輪廻を始めます。
 捨てるのも惜しいので、敢えて記事にしていきます。

 ネタバレがあります。
 映画を未見の方は、本記事はお読みにならない方がよいと思います。

 あくまでも、私個人が、「劇場版」と「テレビシリーズ」を見て感じたことをまとめたものですので、誤認や知識不足があると思います。御容赦くださいませ。



【あれは、きっと、プロポーズ】
 そうか、ギルベルトがヴァイオレットにブローチを買って着けてあげたのは、ある意味、プロポーズ(誓いの指輪を差し出したのの比喩)だったんだね。あの、ギルベルトの歯を食いしばるような表情の意味が分からなかったのだけれど、考えている内に、そう思った。

 「ずっとこうしたかった」のは、そのシーンからも引きずっていたんだね。

 デイートフリートの「お前は自由になれ」のところ、これは、ブーゲンビリアの家を継ぐとなると、孤児で武器扱いだったヴァイオレットを正妻に迎えることは、きっと出来なかったのだろう。ギルベルトが甘んじて受け入れていた様々なことと併せて、それもこれも含めて「自由になれ」なんだろうね。
 先ほどのブローチのところでも、この身分差は利いていたはずで、それも、あの時の表情に反映されているのでは?

 今ほど「人の感情」への理解が無かったかもしれないヴァイオレットだけれど、密接な日々を送る中で、少佐とは既に通じ合えるようになっているところもあったのかもしれない。
 夜店のシーンで少佐を見る表情に、「主人と配下」や「上官と部下」という関係では得られないものが宿っているから。そうでなければ、単に境遇や容姿だけでギルベルトがそこまで深くヴァイオレットを愛したとは思えない。


 それもあっての「ずっと、こうしたかった」なんだね。


 ヴァイオレット自身も、あのブローチの夜のことと、「ずっとそばにいろ」という言葉で、少佐と自分との関係性に、勿論「命令」等ではなく、「思慕」「好き」だけでもない「愛する」という感情を感じていたのだろう。そこは、エカルテ島の灯台の場面の回想(ベッドに腰掛けて呆然としているところ)で表現されていると思う。



【回り道と原点回帰と】
 本編ラスト直前の、月明かりの下の、ギルベルトとヴァイオレットの抱擁は、結局、ヴァイオレットを引き取った時の抱擁への回帰である。
 お互いに多くを失い、それでも辿り着いた「最愛の人」との未来。それは、回り道の先にあったものだったのだ。
 できることならば、あの頃にこうしたかったのだ。深い諦めと再生の先の「ずっと、こうしたかった」なのだ。


 そもそも、ギルベルトはヴァイオレットを戦場に連れ出したくなどなかったはずだ。
 ギルベルトにとっては、一目惚れの相手であり、少しずつあるべき一個人の姿へと導いてやりたかった人なのだ。何よりも大切な、愛する人だった。
 本来ならば家に置いておくべきだったのだろうけれど、武器として有能であることによる命令には抗うことができなかった。

 そして、それは、結果としてお互いにとって大いなる喪失を招いてしまった。

 後悔という言葉では表現できないほどの後悔が、ギルベルトの中にある。

 「取り返しのつかないことに巻き込んでしまった最愛の人に、今更、どの面下げて会えるというのだ」
 「伝え聞くところによれば、彼女にはドールとしての満ち足りた日々があるようなのだ。見守ってくれているホッジンズもいる。私の出現は、私の存在は、今の彼女には必要の無いことだ。だから「決して、会ってはならないのだ」

 と心に決めた。

 それに、
 「すべては、私に激烈な悔いをもたらし、私自身が平静な状態では居られない」
 「取り返しのつかないことの原因である私を、彼女は深く深く恨んでいることだろう」
 「やり場のない恨みならば、せめて私を恨んでくれれば」
 という思いもあったろう。


 「私が少佐を苦しめているのですね」という、ヴァイオレットの言葉は、一面の真理でもある。
 でも、そうじゃない。お互いの、相手を思う心の優しさが、却ってお互いを苦しめる迷路に閉じこめあってしまった状態であることを表す一言なのだ。
 扉の内と外で、2人の左手が同じ動き(固く握りしめた拳とか)をするのは、お互いに同じように相手のことを思って、優しさ故に苦しんでいることを表すのだろう。


 自分がかつてユリス少年に教えた「伝えたいことは、ちゃんと伝えなければ相手に伝わらない」ということを、ユリス少年の死の前後の様子から、改めて認識したヴァイオレットは、このまま翌日に島を去るのではなく、自分の想いを手紙にして少佐に伝えることを決める。
 思いを伝えずに、フェードアウトのような形で島を去ることなどできなかったのだろう。


 言いたいことは、何百何千もあるのだろうけれど、これだけは伝えなければと思ったのは「ありがとう」ということだった。

 過去の「ありがとうございました」が連ねられていく手紙は、やがて現在に至る。
「あなたのくれた、『あいしてる』が、今の私の原点なのだ」という言葉は、少佐の頑なな想いを解き、「それでも、やっぱり、彼女を愛していること。」「何も無いところから、自分の本当の想いを伝え、叶うことならば添い遂げたい」という結論と決断をギルベルトにもたらす。

 優しさ故に、長い遠回りをした。
 けれど、だからこそ、永遠の関係に辿り着いた。

 と、私は理解した。

 妄想過多なので。
 どう受け取るかは、結局、見てる人次第ですからねえ。



【伝えることが出来た人達】
 ユリス少年は、リュカ君になんとか「想いを伝えることが出来た」。
 手紙ではなく電話でだったけれど、むしろ声で直接交わしたやりとりの持つ意味・価値には量れないものがあると思う。
 これは、電話というものを好ましく思っていなかったはずのアイリスの機転のおかげ(ここで、アイリス自身も、きっと、手紙=ドールと電話との争いの決着に対する確答「声には勝てない」を得ていると思う)。

 そうして、ギルベルトも「想いを伝えることの出来た人」だったんだね。ヴァイオレットも、同じく。
 ヴァイオレットは、少佐への最後の手紙で、自分の思いを伝えきり、対するギルベルトは、なんとか、自分の声で積もった想いを直接ヴァイオレットに伝えることができた。
 それぞれの方法で、それぞれの想いを伝えた。

 「伝えられる時に伝えなければ、伝わらない」というのは、正に、最後の出航した船へ叫ぶところでしょ。あのタイミングを逃したら、もう、どうにもならない。そんなタイミング。

 ここで、ユリス少年とのやりとりの、総決算が着くわけだ。ユリス少年は、結論を導くための役割を持った驚くべきトリックスターだった訳だ。

 そして、「大切な人への想い」は「出来る時」に「具体的」に「伝えなければならない」ということを、ヴァイオレットの歩みをたどって得たからこそ、デイジーは両親への想いを込めた手紙を書いたのだ。



【呼んだら、来て欲しい】
 本編の最後の最後、暗闇の中をヴァイオレットがお仕事の格好で歩んで行くシーン。
 あれは何なのかなと思っていたのだけれど、ここまでを通じて「大切な相手への想いを、ちゃんと伝えること」のアイコンとなっているヴァイオレットと、「お客様がお望みなら、どこへでも駆けつけます。自動手記人形サービス=ドールのヴァイオレット・エヴァーガーデンです」のセリフからすると、観客自身に当てた「伝えたい想いは、ちゃんと伝えてください」というメッセージなのかなと。「その時には私もお側におります」と。


 と、思っていたのですが、最近ちょっと変わりました。

 劇場版冒頭の、マグノリア家への道のりと、最後の夜道を歩むヴァイオレットとは、繋がっているのではないかと。

 ヴァイオレットが関わった、クラーラ→アン→(デイジーの母)→デイジーと続くマグノリア家4代の心の繋がりを示しているのではないかと。

 時を越えて、届いた想いなのかなと。
 伝わったんだな、と。

 「こんなにも大切に思っていた(る)」ということは、イコールでは無いのかもしれませんが「あいしてる」ということにも繋がっているのではないかと。

 そうなると、ますます「未来の人へ」の歌詞が重く感じられる気がします。




2020年11月25日水曜日

妄想炸裂 その3「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」

 妄想を炸裂させる記事、その3です。
 どんどん、熱くなっていっております。

 ネタバレがあります。
 映画を未見の方は、本記事はお読みにならない方がよいと思います。

 あくまでも、私個人が、「劇場版」と「テレビシリーズ」を見て感じたことをまとめたものですので、誤認や知識不足があると思います。御容赦くださいませ。



【笑わせるところ】
 「お子さま割引があります」
 「エマージェンシー・プロビジョンです」
 「こんな仕草もできます」

 「これも、少佐の…」
 「いや、それは、俺の」
 「失礼しました」

 他にも、何ヶ所が笑わせに来ているところ、ありますよね?
 公開から2~3週くらいの頃には、割とクスッと笑う人がいたような気もするのですが、なんか、それ以降は笑う人がいないような…。
 ストーリーの上げ下げの振幅を考えて、ずっと見ている側が張り詰めないように緩急を付けているはずなのですよね。それなのに観客側が「泣ける名作」「ちゃんと見ないと」「笑っちゃいけない」とか、どんどん張り詰めてしまっているような感じなのでしょうか。時折クスッと笑うことで、より、メリハリがつくはずなんですけどねえ。
 観客心理は難しいな。なまじ、シリアスな名作であるばかりに、縛られちゃうようなところがあるのかな。

 まあ、最初から最後まで、しかめっ面しながら見ている私も、どうかとは思いますけれど。



【大佐の救済の物語でもある】
 テレビシリーズの最後2話でのヴァイオレットの行動・言動で、ディートフリート大佐の心理も相当に変わったと思います。
 物思わない武器だったはずのヴァイオレットのこれほどまでの変化ですから。

 劇場版序盤の、ヴァイオレットが少佐・大佐の母の墓地を訪ねるシーンで「忘れるは難しい…か」と呟く表情も、相当複雑です。ヴァイオレットが忘れられないように、自分も忘れてなどいないのですから。

 ヴァイオレットの少佐への愛を理解するようになった大佐が、真に生まれ変わるのは、ブーゲンビリア家が所有しているヨットを売却する際に、中に残っているギルベルトゆかりの品々を譲ることを告げるところかな。少し思い詰めた表情で「言わなくちゃ」と、覚悟を決めて話し掛けるのを見ていると、そう感じました。

 ヨットのシーンも、少佐との間の関係性の強さにおいて、絶対的なもののある同士の、濃密なやりとりが描かれていますよね。

 「失ったものは、大きいな。お前も俺も」
 「はい」
 「また会えたら、誤りたいことも、話したいこともある」
 「はい」

 のところでは、ヴァイオレットを自分と同レベルと認めたのを感じます。これまでヴァイオレットに対して取っていた姿勢は、もう、まったくありません。


 余談ですが、ここの、二回目の「はい」って、なんだか心に染み入ります。優しい想いの籠もった、心が通じた「はい」だと感じます。
 私はヴァイオレットを演じる石川由依さんをこれまで知りませんでしたが、このセリフを聞いた時「いい演技をする人だな」と強く思いました。「進撃の巨人」は、申し訳ないのですが、好みではないのでまったく見ていないんですよね。あー、「ガーリッシュ ナンバー」とかにも出ておられたのですね。録画はしたけど、ちゃんと見なかったからなあ…。


 
 閑話休題。その後の大佐は、表立って描かれはしませんが、きっとヴァイオレットの為にいろいろと動いているはずです。
 エカルテ島での兄弟の再会の場面、「今は麻袋に詰め込んで、ヴァイオレットの前に放り出したい気分だ」のところで、ヴァイオレットの側に立った大佐の心をみることが出来ます。

 これまで、様々なことを背負わせてしまった弟のこれからのために、目を背けていたことを受け入れる。
 「お前は、もう、自由になれ」の一言は、きっと大佐自身への救済にもなっているはずです。やっと、ある種のことを受け入れる決意をしたのですから。大佐だって、ただの嫌われ者ではなく、背負ってきたものはたくさんあるはずですから。

 大佐のこの変化は、ヴァイオレットの変化・想いを受けてのものだと思います。
 「あいしてる」を知りたいというヴァイオレット自身の救いの物語は、結果的に、関わった人たちを変える救いの物語でもあるのですね。



【ホッジンズにだって】
 あれは、電波塔の完成祝いの花火なのかな。
 それとも、何か別のお祝いか記念日なのか。

 皆で花火を見ている時に、一際華やかな花火が上がった後、ホッジンズ社長が左側を振り返る1コマ。
 これまでならば、そこにはヴァイオレットちゃんがいて、何か一言返してくれるところなのですが、今はただ空間があるだけ。ホッジンズの瞳に涙が浮かびます。
 ベネディクトにからかわれ、言い返すのですが、あながち的外れでもないのでしょう。

 そりゃ、ギルベルトとの絆には敵わないけれど、ホッジンズにだってヴァイオレットと過ごした時間があるのですから。

 療養施設からヴァイオレットを引き取った後の献身は、「過保護だ」と言われながらも、大きなものがありました。ホッジンズの優しく、でも要点は押さえた見守りが無ければ、ヴァイオレットは今の状態にたどり着けたかどうか。

 実際の所、「人の感情」「人の心」「人の想い」が分かるように導いたのはホッジンズだと思います。


 心優しきホッジンズには、カトレアさんがいます。
 ベネディクトにからかわれるホッジンズを見る目には、とても優しいものを感じますから。
 きっと、ギルベルトとヴァイオレット達と同じように、優しい家族になるのでしょうね。



妄想炸裂 その2「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」

 妄想を炸裂させる記事、その2です。
 少しずつ、篤くなっていっております。

 ネタバレがあります。
 映画を未見の方は、本記事はお読みにならない方がよいと思います。

 あくまでも、私個人が、「劇場版」と「テレビシリーズ」を見て感じたことをまとめたものですので、誤認や知識不足があると思います。御容赦くださいませ。



【この一瞬のために】
 はからずも見た11回目の時に、ふっと思ったのです。

 心ならずも、少佐に別れを告げ島を去るヴァイオレット。
 動きはじめた船の舷側に佇んで、虚ろに遠ざかる島を眺める。
 本当は見るべきではないのかもしれませんが、どうしても消せない心残りがあるのでしょう。葡萄畑も目に入ってしまいます。少佐は、既にそこには居ませんが。

 そして、微かに聞こえた少佐の声。
 自分の名を叫ぶ、少佐の声。
 一瞬、考えて、でも、それは空耳等ではなく、本当に自分を呼ぶ声なのだと理解した時の、ヴァイオレットの瞳の動き。声の方へ振り向いた時の、言葉では表しきれない、美しい表情。


 道具とも武器とも呼ばれた、感情を理解しなかったはずの彼女の辿った軌跡。そして到達点。

 もしかしたら、テレビシリーズ13話+OVA+外伝を通して描きたかったのは、この一瞬だったのかもしれませんね。



【あとは、ファンのための「おまけ」なのかも】
 少佐の声を聞いて振り返った時に、ヴァイオレットの中では物語は終わっているのではないかと思うのです。

 月光の下、浜辺での少佐の告白とヴァイオレットの嗚咽は、実はファンが結末を得るための「付けたり(※)」なのではないかと。
 ヴァイオレットには、自分の名を呼んでくれた時に「想いが通じた」ことが、わかっているはずなのですから。
 ヴァイオレットは一度も「あいしてる」等の宣言する言葉は口にしませんよね。言うまでもないことなのでしょう。

 そもそも、島で少佐とやりとりしている時、一度も「ヴァイオレット」と呼ばれていませんからね。


 デイジーがエカルテ島でヴァイオレットの徴(しるし)をたどり、彼女のその後を語るのも、ファンに対して、ヴァイオレットの物語に終止符が打たれたことを伝える「付けたり」なのです。


 エンディングテーマ「未来のひとへ 〜Orchestra ver.〜」のラスト、2人が指切りをするあの場面は、「ハッピーエンド」の止め(とどめ)なのだと思います。「安心してください」とでもいいますか…。

 あの指切りでは、きっと「死ぬまで、いや、死んでも互いに離れない」という約束をしたのかな。やっと手に入れた2人の永遠ですものね。


※:
「本来のものにつけ加えられた、添えもの。付加物」とでもいう意味で、古典文学の説話集等では、本題のお話に関連のある事項を追加で付加しておく時に、本題の話の題名の後に「付 ○○○○」みたいに表記されます。例外もあるけど…。



【感情表現の顕化】
 そういえば、エカルテ島に行った以降のヴァイオレットは感情の表現がはっきりしているのです。これまでの、抑えたそれとは明らかに違っていますよね。

 ホッジンズ社長が「ここで待っていてくれるかな」と告げた後は、言動にも表情にも動作にも活発さが表れています。

 ホッジンズが門を開けて学校の中に入って行くところ、背後のヴァイオレットは「うーん」とも「ふー」ともつかない表情をして、落ち着かなく辺りを見回したりしています。これまでのヴァイオレットからは考えられない挙動です。

 ホッジンズとギルベルトの話し合いが決裂して、門のところへ戻ってきた後の動きも違います。
 「ギルベルト少佐でした」とスキップするようにホッジンズへ駆け寄る姿も、これまでに見せたことのないものです。「少佐に会える」ことの嬉しさを形にしたかのようで、それだけに「会わない」という少佐の意志を伝えられた時の落胆と衝撃が際立ちます。



【二人組の綺麗なお姉さんたちへ】
 これは、Dolby Cinema版2回目の時の話。

 「めっちゃ音良かったっすねー。凄く小さな音まで拾ってくれてて。それだけに、あれ、なんなんすかね? ブーンって鳴ってたの。最初は『お? 効果音なのかな?』って思ってたんすけど、ずーっと消えないから。あれ?これおかしいなって…」
 「本当、あれなんだったんたろうね?」

 おっしゃる通りです。全面的に同意致します! あの、D-12位のシート裏の辺から出ていた音、何なんでしょうね? 上映中だけ聞こえるのが不思議でした。

 ところで、シアターを出るまでに、ヴァイオレットの最後の手紙のことを話してたと思うんですけど、あれ、何を話してたんですか? あっちの内容こそ、聞きたかったです。


 やっぱり、最後の手紙を少年に託すシーンは想いが籠もっていて、良いですよね。
 長めの瞬きをした瞬間に、「さようなら」を告げていたのでしょうか。


2020年11月24日火曜日

妄想炸裂 その1「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」


 まずは、軽めの妄想からいきましょうか。

 ネタバレがあります。
 映画を未見の方は、本記事はお読みにならない方がよいと思います。

 あくまでも、私個人が、「劇場版」と「テレビシリーズ」を見て感じたことをまとめたものですので、誤認や知識不足があると思います。御容赦くださいませ。



【ほら、「物」大好き人間だから】
 まあ、いろいろと「合わないなー」「おかしいなー」と思うことはあるんです。
 でもね、そもそも、あの時代設定なのに「あの義手」が存在している世界なので、合理的なこと考えても意味がないのですよね。
 お話を楽しむことを優先に考えて、「我々の暮らす世界に近い、別の世界」と割り切るのがよいと思います。

 そうは思うのですけれど、中途半端に小物類が我々の使っている物と似ているのが、心の平静をかき乱すんですよね…。「黒電話」とか、私も使っていた世代ですから。

 あと、デイジーがヴァイオレットの足取りを追ってライデンを訪れた時の風景の中の車が、どう見てもマスタングとか2CV(他もフランス車っぽいのが見えますよね)というのが、引っかかるのです。「見た目、もうちょっと変えよう?」とかね。



【「少佐の犬」……。】
 エンドロール後の、本当の最後のシーン。
 CH郵便社でのヴァイオレットの部屋、机の上に置いてあった犬の玩具が、ヴァイオレットのトランクの上に置いてあったということは、「抱えていた仕事を全部済ませて、エカルテ島に渡って」来た直後ということでしょう。

 そして、ベッドに腰掛けてギルベルトと指切りをしている時に上着を着ていないのは、単に外出着を脱いだという訳ではなく、それまでのある意味「武装していた」時とは異なり、素の状態(=求めていたゴールに辿り着いた)になったということを表現しているのでしょう。

 あの上着はある種、軍装に似たデザインだったので、拡大解釈するのならば、「ホッジンズたちが、ヴァイオレットを守るための装束として見立てて、着させたもの」だし、「ある意味、自分を探す任務中だった」ことの印なのかもしれません。

 物語自体の初めの頃、ギルベルト少佐に引き取られた時の装束にある意味戻ったと考えても良いのかもしれませんね。



【ベタな比喩もあるのかも】
 校内で少佐の姿を探すヴァイオレット。
 その時、ギルベルトは葡萄畑で収穫の手伝いをしているので、見つけることは出来ません。
 ホッジンズが聞き出してきたギルベルトの家を訪ねることになります。

 ギルベルトは、焚き火に掛けられた煮え立つ鍋の前で、外にはヴァイオレットが立っているドアに背を向けて佇んでいます。この鍋とその後の燃え立つ炎は、穏やかではないギルベルトの心の比喩でしょう。

 こういう、ベタな比喩表現も織り込んでいるのですね。
 見る限り、少なくとも、もう一カ所ベタな比喩があったと思います。
 見た瞬間は覚えているのですが、次々に感情が押し寄せるので、覚えていられないのですが。



上映終了を控えて「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」


 Dolby Cinema版の「AKIRA」が12月4日(金)から公開だそうですね。
 ということは、現在公開中のDolby cinema版の「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」も、11月27日からの一週間で終わりと言うことになるのでしょう。

 公式サイトで、これから劇場公開される所のリストがあがってました。かなりの数でしたが、そういった「遅れ公開」の所を除けば、9月下旬から続いてきた本作の上映も、そろそろ終わりという時期になって来たと思います。

 1~2週の時の来場者特典の書き下ろし小説の小冊子がコンプリート出来ていないので、「どうしようかな」という迷いは無くはないのですが、まあ、最悪の場合「買う」という手段も…。良くはないけれど、おじさんにはそういう解決法も残されてはいますから…。


 前の記事でも書きましたが、昨今の新型コロナウイルス感染症の流行の状況を鑑みれば、もう、ギリギリのタイミングなのだろうと思います。

 仕事の都合もあるし、「ヴァイオレット~」以外に見たい作品との兼ね合いもあるしで、あと何回見に行けるのかな、と思ってます。
 「12回見れば、十分以上だろ?」と、言われれば頷くしかありませんが。


 これからの何回かは、これまでに考えてきた「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」についての感想を上げていきます。
 「劇場版 若おかみは小学生!」の時のように、「感想」というよりは「妄想」ばかりですけれど……。

 日記は改めて読む気にならなければ読みませんが、ブログの記事にしておけば、たまには自分で読むこともあるので「この時にはこんな事を考えていた」という備忘録でもあります。


 目新しい内容は無いですが、ま、「こういうこと考えながら見てる人もいるんだ…(引き)」ということで。


 なお、自分の思考(妄想)が乱れるので、他の人のレビューや感想等は、読んでおりません。事実確認のために、Wikipedia等の記事を読んだ所はあります。
 あくまでも、私個人が、「劇場版」と「テレビシリーズ」を見て感じたことをまとめたものですので、誤認や知識不足はあると思います。御容赦くださいませ。


 残された「映画館で観ることの出来る時間」も余りないし、画像無しの連投になります。ごめんなさい。


2020年11月23日月曜日

興行的な失敗の心配


 私、新聞はほとんど読みません。
 「地元紙が好きではないから」というのが、理由としては最も大きいです。

 でも、一応は社会人の端くれですし、ある程度は世間の出来事を知っている必要はあります。
 なので、新聞を読まない分、最低限度知っていた方がよい大きな話題を知るために、朝はテレビのニュースワイド番組を眺めています。
 出勤の準備をしながらなので、見るというよりは、眺める程度なのですが。
 午前5時59分からの流れる天気予報を見るため、という理由も大きいですが。


 このところは、もっぱら「新型コロナウイルスの感染者の増加」の話題ばかりですね。いわゆる「第3波」ってやつ。

 私が暮らしている愛知県も感染者が増加していて、県独自の警戒基準が上から2番目になりました(11月19日付け)。
 基本的には引きこもりで、職場と自宅を往復しているだけの日々ですから、普段の生活的には、あまり関係ないのです。家の外にいる間、出来る限りの対策をするのみです。


 が、気になるのはこれから公開される予定の映画のこと。
 言い方は悪いですが、今、スクリーンに掛かっている映画は、ある意味「逃げ切り組」なのではないでしょうか。
 「鬼滅の刃」等は、後から振り返ってみれば、「奇跡のタイミング」となるのではないかと思ってます。

 個人的に見たいと思っている「ジョゼと虎と魚たち」は、12月25日公開予定です。いろいろな理由でこの時期の公開としたのでしょうが、今後状況が厳しくなれば、当然興行的には苦しくなるのではないでしょうか…。


 映画館に行くと、「映画館は換気しているので、少なくとも密閉ではない。だから『3密』にはならない」と、予告編タイムに流しています。いつの間にか、シネコン・映画館によっては全席販売をしている所もあります。
 本格的第3波となれば、再び座席の半数販売に戻らざるを得ないかもしれませんし、そもそも、人出そのものが激減することになると思います。


 なんとか息を繋いだのが、この先どうなるのか。
 他人事ではあるのですが、とても心配です。

 ワクチンに希望を込めて、もう暫くは歯を食いしばって耐えるしかないのでしょうね。


 そういう意味でも、見たい作品があるのならば、厳重に注意した上で、来週末位までに見ておいた方が良いように思います。

2020年11月22日日曜日

オタ活? そもそも、見に行ってる映画がそうですからねえ。


 職場で隣に座っている頑張り屋の同僚(後輩,女子)とのお喋り。

 「鬼滅の刃、見に行こうと思って」
 「へー、Iさん、鬼滅見るんだ」
 「見るんですよ。あれね、凄く泣けるんです。前に、たまたまテレビシリーズを見るようになったんですけど、もうボロボロ泣くんです」
 「ほー」
 「あるばりさんは、見ないんですか?」
 「うーん、好みじゃないんだよね」
 「見てくださいよ! 泣けますから」
 「うーん。(;一_一)」

 私、絵柄の好みが激しいので…。
 それに、あまのじゃく、ですから。
 流行りのものには背を向けるタイプなのです。

 「で、私、映画見に行こうと思うんですけど。ウチの子たちも『見たい』『見たい』っていうし」
 「うん」
 「最初は、妹とウチの3人でということだったんですけど、『面白そう』って父母も見に行くことになって」
 「へえ。6人か。凄いねえ」

 一気に観客動員数が6増えるんだもんね。



 同じ名古屋駅前ですが、私は「ミッドランドスクエアシネマ1」、Iさん一家は「ミッドランドスクエアシネマ2」とそれぞれ分かれます。
 昨夜はマニア的活動をしたかったので、本来は行かないはずの「ミッドランドスクエアシネマ2」にも行ったのですが、オタ活してるところを見られなくて、ホッとしました。


 「泣けちゃう」「泣きたい」「子供がいると、大泣きできないんですよ」と言っていたIさんに、「明日は、1日講習会でしょ。確か会場はミッドランドスクエアシネマ2のすぐ横だから、福利厚生の割引券使って1人でまずは見てくれば? 1人だったら思う存分泣けるでしょ?」と、話したら、「ええー!? 同じ映画を2回、それも連日は見ないですよ。それなら、違う映画見るかな。って、あるばりさんは、明日で何回目でしたっけ?」と、バッサリ切り捨てられました。「いいんですよ。それがオタの道なんだから。こっちも泣ける映画だよー」と言い返して見ましたが、やはり一般人の女子(特にバリバリ働いているお母さん)は合理的ですな。



 ところで、わざわざ「寄り道してでも、遂行しなくては」と思った「オタ活」とは、一体何か?
 現在「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」のDolby Cinema版を掛けているのはJR名古屋駅のほぼ正面にある「ミッドランドスクエアシネマ1」なので、「魔女見習いをさがして」を見に行くまでは「ミッドランドスクエアシネマ2」に行ったことがなく知らなかったのですが、「シネマ2」の出口ホールにはこんな場所があったんです。

これは、よく見るヤツですね


こちらは、初見でした。表情が良いな


 「これは、是非とも360度カメラで撮影しておかなくては」と思って、普段のお仕事の時に現地調査等で愛用している通称「現調くん1号」を持参したのですが………。どうやら1日遅かったようです。

ああ。ヴァイオレットを返せ

 「『魔女がいっぱい』なんて、興味も関心もないんや。2枚目のヴァイオレットの掲示物を返せっ!」と心の中で叫んでおりました。


 季節はずれの暖かい日のこと、遠回りの寄り道の後に「ミッドランドスクエアシネマ1」にたどり着いたら、身体はホカホカで汗ダクダク。最近は検温しているので、入場拒否されないかなと心配しつつ、汗を拭っておりました。