今回も、妄想をスパークさせていきます。
各登場人物についてのちょっとしたことを書いております。
興味が偏っているため、取り上げていない人たちもいますが、その点はご容赦くださいますように。
【おっこちゃん】
最初の頃は「あれ、これ私の本意じゃないんだけどな」って困ったような作り笑いの表情を浮かべていたおっこだけど、神田親子で手応えを掴んだ後は、少なくとも「どうしようかな」という、解決のための困ったような表情はしても、「意に添わない(嫌なんだけど受け入れてる)ことから来る、アンビバレンツな作り笑い」は見せなくなった。これは、成長の端的な表現なんだろうな。前向きさとか。
真月ちゃんから資料や花の湯牛のお肉を貰ってきてからの、康さんに見せる複雑な笑顔混じりの表情は、知識も無く役に立てない自分への不甲斐なさ、そんな自分を責めずに扱ってくれる康さんへの申し訳なさから来ている、半ば苦笑いみたいなものですよね。おっこちゃんの気持ち、なんか分かります。
【水領様!】
胸騒ぎがして駆け付けてくれるほどの水領様だから、露天風呂のシーンでおっこのことは感じ取っていたんだと思います。
「花の湯温泉のお湯は、誰も拒まない。すべてを受け入れて癒してくれる」と少し苦しそうに答えたおっこの言葉の中には、「自分もそうなのだ(=癒される側)」ということが含まれている。そんな、本当は苦しいはずのおっこの気遣いで、水領様の気持ちは変わり、少しずつ元気も出て気が晴れてきた。
「それじゃ、そんなにも頑張っている『あなた』の気晴らしは?」って思いから、おっこに問いかけたのでしょう。そこには「今度は、私があなたを少しでも元気付けるね」という想い・やさしさが感じられます。
あの「お風呂場のやり取り」には、たったあれだけの中に複雑なものが隠されているんだと思います。
水領様は、ウリ坊・美陽ちゃんのことも気づいていたのかもしれません。
車に戻ってショッピングモールへ向かう時のシーンの中で、水領様、ふと、リアシートを見るんです。
姿は見えなくても、ウリ坊・美陽ちゃんの気配は感じているんじゃないかな。
水領様の車の中で、おっこが三人のストラップをぎゅっと握りしめているところでの「ずっと握られて苦しそうよ」っていう台詞には、「おっこのことが気がかりで昇天出来ない二人」のことに繋がっているのかもしれません。
おっこが、水領様との買い物で大人っぽい服装を身にまとって、それまでの子供っぽさがまだまだ多かった姿から少し成長したように思えた後。
花の湯温泉の社会の中に少しずつ溶け込み、居場所を得つつ精神的にも少し大人に近づいていくことで、二人が見えなくなっていくことになる(=精神的に成長していると思われる/※)訳ですから。
姉のような、年の離れた友達のような、今のおっこに寄り添う見守り手の水領様は、だから、あの「気晴らし買いドライブ」で、おっこに強いきっかけを与えていたのかもしれませんね。
※:「『精神的な成長』で失うもの」という点について表しているのが、神楽のお稽古場に掛かっているもう一つの書である「二分心」なのかも。
こちらは漢文と違って詳しくないので、ここまでとしますが、時間が出来たら、ちょっと関連書(たぶん、ジュリアン・ジェインズの「神々の沈黙-意識の誕生と文明の興亡」)を読んでみようと思ってます。面白そうな本です。
【みーねこちゃん】
そうそう、峰子ちゃんは、ウチの母方の叔母と同い年。
峰子ちゃんは、背中に一本筋が通った、シャンとしたお祖母様なのね。羨ましい。
ところで、叔母の世代の様子を考えてみると、昭和30年頃にしては、ウリ坊も峰子ちゃんも、スタイルがちょっと古すぎるような気がしますな。なんだかんだで、昭和39年には東京オリンピックやってる訳ですから。
ちなみに、死んだウチの母方のばあちゃんの名前も「みね子」なんすよ。
だから本作で、ウリ坊が「峰子ちゃん」を連発すると、ちょっと小っ恥ずかしいような…。
【鈴鬼くん】
鈴鬼くんは、エンドロールのイメージボードで、お母さんからおっこのこと「私に何かあったら あかちゃんを守ってね」と頼まれていたんですね。
だから本作で、ウリ坊が「峰子ちゃん」を連発すると、ちょっと小っ恥ずかしいような…。
なお、母方の叔母には「みよ子」略して「みよちゃん」がおりました。
この叔母は劇中の美陽ちゃんよりも小さな歳で世を去っていて、写真も見たことがないので、私にとっては幻の叔母です。
【鈴鬼くん】
鈴鬼くんは、エンドロールのイメージボードで、お母さんからおっこのこと「私に何かあったら あかちゃんを守ってね」と頼まれていたんですね。
だから、おっこが春の屋に一人で現れた翌朝、おっこだけに聞こえるように鳴っていたんですね。
そう思うと、神楽のところで、鈴鬼くんが木の上でおっこの両親の写真をじっと見ているのも、なんとも言えない感じがします。ただの魔物じゃないんですよ。
そういえば、ウリ坊も鈴鬼くんの横でお母さんのお願いを聞いていました。だから事故の時におっこを助けてくれたのかも。
原作シリーズの中では、鈴鬼くんは作家になっているところもあるそうですね。
神田父から届いた雑誌「WAVE」を読んでいる場面で、妙にメガネが似合っていたり、「関織子さんじゃないんですね」とか言ったりしてるのも、実はそんな作家・鈴鬼くんをちょっとイメージさせてくれる気がします。

姉さんかぶりのおっこは、働く着物姿の良さを再認識させてくれましたよね〜。
そう思うと、神楽のところで、鈴鬼くんが木の上でおっこの両親の写真をじっと見ているのも、なんとも言えない感じがします。ただの魔物じゃないんですよ。
そういえば、ウリ坊も鈴鬼くんの横でお母さんのお願いを聞いていました。だから事故の時におっこを助けてくれたのかも。
原作シリーズの中では、鈴鬼くんは作家になっているところもあるそうですね。
神田父から届いた雑誌「WAVE」を読んでいる場面で、妙にメガネが似合っていたり、「関織子さんじゃないんですね」とか言ったりしてるのも、実はそんな作家・鈴鬼くんをちょっとイメージさせてくれる気がします。
【掛け軸の意味】
神楽のお稽古場に掛かってる掛け軸。
向かって右側の「生我者父母 成我者朋友」ってヤツ。
あれが、あそこで掛かっているのって、実は意味があるのではないかと思うのです。
決して、単純に「それらしい」のが背景として描かれているのではないと。
あの「生我者父母 成我者朋友」、中国の古典「管子」の「管鮑之交(かんぽうのまじわり/※)」のところですね。長いお話になってしまうので、詳しくはネットで検索して欲しいのですが。
とりあえず、あの漢文は「我を生みなししものは父母 我を成らしめしものは朋友」とでも読んでおくとして、意味は「私をこの世に産み出してくれたのは父と母。私を私たらしめてくれたのは親友」くらいでしょうか。
古代中国で活動した「管仲(かんちゅう)」と「鮑叔(ほうしゅく)」とは、いろいろと経緯があるものの本当の理解し合った親友だったという故事に基づきます。
あの掛け軸、何気なく掛かっているように見えるのですが、両親を無くしたけれど、新天地で「真月」という「良きライバル=理解者」を得たおっこの今を考えると、また違って見える気がします。
神楽の練習の辺りは、おっこの精神的成長を感じさせるところだったりもしますしね。
まあ、考えすぎかもしれませんけど。
そういえば、教室の後ろに掲示されている書道の作品ですが、あれも小学6年生とは思えない漢字ばかりで、ちょっと驚きます。「惻隠(そくいん)」とか「陶冶(とうや)」とか「醍醐」とか。
案外、花の湯温泉の一帯は、国語のレベルの所だったりして。
私、何故か今は技術者もどきをやってますけど、元々はバリバリの文系なので、ああいう漢文とかって気になるんですよー。
※:今回のは、よくある「禅語の掛け軸」から採ったんでしょうかね。
本来の出典(例えば「史記 晏管列伝」、それから引いた「十八史略」)だと後ろ半分が「我を知る者は鮑子なり(知我者鮑子也)」ですからね。「知我者鮑子」では、単に管仲と鮑叔だけのお話ですが、「成我者朋友」ならば普遍的な友人関係に拡大できますから。
仲日、生我者父母、知我者鮑子也。
ちゅういわく われをうみしはちちはは われをしりしはほうしなり
ところで、管仲は古代中国にあった国「斉(せい)」の「桓公(かんこう)」という主君に仕えました。
「周(しゅう)」という王朝の中のいわば「○○藩」として、「斉」のような国がいくつもあったのですが、そういった国同士が争っていた時に、桓公が初めて「覇者」として各国の主である「諸侯」を集めて盟約の会を挙行しました。その時に、桓公を支えて覇者に押し上げたのが管仲だったんです。
桓公九合諸侯、一匡天下、皆仲之謀。
かんこうしょこうをきゅうごうし てんかをいっきょうせしは みなちゅうのはかりごとなり
管仲さん、凄い人なんすよね〜。
って、ここで春秋戦国時代の話をしても仕方が無いので、今回はここまで。
姉さんかぶりのおっこは、働く着物姿の良さを再認識させてくれましたよね〜。
さてと、次回は、この映画についての私なりの「結論」を取り上げる予定です。
今回の画像は、いつも通っているシネコンのロビーでのポスター展示を撮影した写真から無理やり切り出したものばかりなので、ちょっと見栄えが悪いです。
一応は、補正してありますが…。