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2020年11月26日木曜日

妄想炸裂 その4「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」

 妄想を炸裂させる記事、その4です。
 ここら辺から、思考が輪廻を始めます。
 捨てるのも惜しいので、敢えて記事にしていきます。

 ネタバレがあります。
 映画を未見の方は、本記事はお読みにならない方がよいと思います。

 あくまでも、私個人が、「劇場版」と「テレビシリーズ」を見て感じたことをまとめたものですので、誤認や知識不足があると思います。御容赦くださいませ。



【あれは、きっと、プロポーズ】
 そうか、ギルベルトがヴァイオレットにブローチを買って着けてあげたのは、ある意味、プロポーズ(誓いの指輪を差し出したのの比喩)だったんだね。あの、ギルベルトの歯を食いしばるような表情の意味が分からなかったのだけれど、考えている内に、そう思った。

 「ずっとこうしたかった」のは、そのシーンからも引きずっていたんだね。

 デイートフリートの「お前は自由になれ」のところ、これは、ブーゲンビリアの家を継ぐとなると、孤児で武器扱いだったヴァイオレットを正妻に迎えることは、きっと出来なかったのだろう。ギルベルトが甘んじて受け入れていた様々なことと併せて、それもこれも含めて「自由になれ」なんだろうね。
 先ほどのブローチのところでも、この身分差は利いていたはずで、それも、あの時の表情に反映されているのでは?

 今ほど「人の感情」への理解が無かったかもしれないヴァイオレットだけれど、密接な日々を送る中で、少佐とは既に通じ合えるようになっているところもあったのかもしれない。
 夜店のシーンで少佐を見る表情に、「主人と配下」や「上官と部下」という関係では得られないものが宿っているから。そうでなければ、単に境遇や容姿だけでギルベルトがそこまで深くヴァイオレットを愛したとは思えない。


 それもあっての「ずっと、こうしたかった」なんだね。


 ヴァイオレット自身も、あのブローチの夜のことと、「ずっとそばにいろ」という言葉で、少佐と自分との関係性に、勿論「命令」等ではなく、「思慕」「好き」だけでもない「愛する」という感情を感じていたのだろう。そこは、エカルテ島の灯台の場面の回想(ベッドに腰掛けて呆然としているところ)で表現されていると思う。



【回り道と原点回帰と】
 本編ラスト直前の、月明かりの下の、ギルベルトとヴァイオレットの抱擁は、結局、ヴァイオレットを引き取った時の抱擁への回帰である。
 お互いに多くを失い、それでも辿り着いた「最愛の人」との未来。それは、回り道の先にあったものだったのだ。
 できることならば、あの頃にこうしたかったのだ。深い諦めと再生の先の「ずっと、こうしたかった」なのだ。


 そもそも、ギルベルトはヴァイオレットを戦場に連れ出したくなどなかったはずだ。
 ギルベルトにとっては、一目惚れの相手であり、少しずつあるべき一個人の姿へと導いてやりたかった人なのだ。何よりも大切な、愛する人だった。
 本来ならば家に置いておくべきだったのだろうけれど、武器として有能であることによる命令には抗うことができなかった。

 そして、それは、結果としてお互いにとって大いなる喪失を招いてしまった。

 後悔という言葉では表現できないほどの後悔が、ギルベルトの中にある。

 「取り返しのつかないことに巻き込んでしまった最愛の人に、今更、どの面下げて会えるというのだ」
 「伝え聞くところによれば、彼女にはドールとしての満ち足りた日々があるようなのだ。見守ってくれているホッジンズもいる。私の出現は、私の存在は、今の彼女には必要の無いことだ。だから「決して、会ってはならないのだ」

 と心に決めた。

 それに、
 「すべては、私に激烈な悔いをもたらし、私自身が平静な状態では居られない」
 「取り返しのつかないことの原因である私を、彼女は深く深く恨んでいることだろう」
 「やり場のない恨みならば、せめて私を恨んでくれれば」
 という思いもあったろう。


 「私が少佐を苦しめているのですね」という、ヴァイオレットの言葉は、一面の真理でもある。
 でも、そうじゃない。お互いの、相手を思う心の優しさが、却ってお互いを苦しめる迷路に閉じこめあってしまった状態であることを表す一言なのだ。
 扉の内と外で、2人の左手が同じ動き(固く握りしめた拳とか)をするのは、お互いに同じように相手のことを思って、優しさ故に苦しんでいることを表すのだろう。


 自分がかつてユリス少年に教えた「伝えたいことは、ちゃんと伝えなければ相手に伝わらない」ということを、ユリス少年の死の前後の様子から、改めて認識したヴァイオレットは、このまま翌日に島を去るのではなく、自分の想いを手紙にして少佐に伝えることを決める。
 思いを伝えずに、フェードアウトのような形で島を去ることなどできなかったのだろう。


 言いたいことは、何百何千もあるのだろうけれど、これだけは伝えなければと思ったのは「ありがとう」ということだった。

 過去の「ありがとうございました」が連ねられていく手紙は、やがて現在に至る。
「あなたのくれた、『あいしてる』が、今の私の原点なのだ」という言葉は、少佐の頑なな想いを解き、「それでも、やっぱり、彼女を愛していること。」「何も無いところから、自分の本当の想いを伝え、叶うことならば添い遂げたい」という結論と決断をギルベルトにもたらす。

 優しさ故に、長い遠回りをした。
 けれど、だからこそ、永遠の関係に辿り着いた。

 と、私は理解した。

 妄想過多なので。
 どう受け取るかは、結局、見てる人次第ですからねえ。



【伝えることが出来た人達】
 ユリス少年は、リュカ君になんとか「想いを伝えることが出来た」。
 手紙ではなく電話でだったけれど、むしろ声で直接交わしたやりとりの持つ意味・価値には量れないものがあると思う。
 これは、電話というものを好ましく思っていなかったはずのアイリスの機転のおかげ(ここで、アイリス自身も、きっと、手紙=ドールと電話との争いの決着に対する確答「声には勝てない」を得ていると思う)。

 そうして、ギルベルトも「想いを伝えることの出来た人」だったんだね。ヴァイオレットも、同じく。
 ヴァイオレットは、少佐への最後の手紙で、自分の思いを伝えきり、対するギルベルトは、なんとか、自分の声で積もった想いを直接ヴァイオレットに伝えることができた。
 それぞれの方法で、それぞれの想いを伝えた。

 「伝えられる時に伝えなければ、伝わらない」というのは、正に、最後の出航した船へ叫ぶところでしょ。あのタイミングを逃したら、もう、どうにもならない。そんなタイミング。

 ここで、ユリス少年とのやりとりの、総決算が着くわけだ。ユリス少年は、結論を導くための役割を持った驚くべきトリックスターだった訳だ。

 そして、「大切な人への想い」は「出来る時」に「具体的」に「伝えなければならない」ということを、ヴァイオレットの歩みをたどって得たからこそ、デイジーは両親への想いを込めた手紙を書いたのだ。



【呼んだら、来て欲しい】
 本編の最後の最後、暗闇の中をヴァイオレットがお仕事の格好で歩んで行くシーン。
 あれは何なのかなと思っていたのだけれど、ここまでを通じて「大切な相手への想いを、ちゃんと伝えること」のアイコンとなっているヴァイオレットと、「お客様がお望みなら、どこへでも駆けつけます。自動手記人形サービス=ドールのヴァイオレット・エヴァーガーデンです」のセリフからすると、観客自身に当てた「伝えたい想いは、ちゃんと伝えてください」というメッセージなのかなと。「その時には私もお側におります」と。


 と、思っていたのですが、最近ちょっと変わりました。

 劇場版冒頭の、マグノリア家への道のりと、最後の夜道を歩むヴァイオレットとは、繋がっているのではないかと。

 ヴァイオレットが関わった、クラーラ→アン→(デイジーの母)→デイジーと続くマグノリア家4代の心の繋がりを示しているのではないかと。

 時を越えて、届いた想いなのかなと。
 伝わったんだな、と。

 「こんなにも大切に思っていた(る)」ということは、イコールでは無いのかもしれませんが「あいしてる」ということにも繋がっているのではないかと。

 そうなると、ますます「未来の人へ」の歌詞が重く感じられる気がします。